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9月1日

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前回、現代日本人の《身体感覚の喪失》という話に触れましたが、意味がよくわからないかった方も多かったかもしれません。

私も、あちらこちらで、この《身体感覚の喪失》についての話題、主にそのことに起因する危機感について聞いていて、

なんとなく認識していましたが、特に理論的に整理して考えたことはなかったので、説得力が足りなかったかもしれません。

そこで、ネットで検索して、いまや著名な斉藤孝氏の「身体感覚を取り戻す(NHKブックス)」を読んでみました。

 

ジョギングを通して、腰を中心に身体を使うことの大切さは身に染みてわかっていましたので、第一章の「腰と肚」については

うなずきながら理解できました。、

興味深かったのが、第2章の「からだと言葉」で、「練る」「磨く」「背負う」という精神的な成長に使われる言葉の元の意味の経験が

失われているために、「練る」「磨く」「背負う」などの行為の大切さがわからなくなっている、という指摘です。

実生活で小麦粉に水を加えてうどんをよく練ったり、陶器をつくるために土をよく練ったりする経験がないと、

例えば「作戦を練る」ということの真意がわからず、そこに思い至らなくなっている、というのです。

この本では、他に腰を中心に立ったり歩いたりすることの大切さが忘れられ、「腰を据える」や「肚を決める」の意味がわからず、

また、包丁など刃物を砥石で研ぐ経験がないために、「技を磨く」とか、「感覚を研ぎ澄ます」ということの実感が失われている、というのです。

 

まぁ、プロの運動選手や優れた職人のもつ身体感覚は、もう身体で覚えるしかないレベルのものなので、

こうして本の中で言語化できる範囲は限られてくるのはやむを得ないところでしょう。

現代のお金を使ってサービスを受け取るだけの生活が極まってしまうと、自らの身体感覚、ひいては世界・物事の認識が

ひどく単純なものになってしまうことの弊害を、意識的に捉えて実習の重要性を取り戻さなければならないのだろうと、再認識しました。

 

ところで、この本が具体的に指摘した言葉で私が失っていると明確に指摘されていると感じたのは「背負う」です。

私は小さい頃から、何かを背負うような家事手伝いをしたことがありません。自分より年少の兄弟(おりませんので)をおぶったこともありませんし、

農作物を運んだりしたこともないので、自分以外の何かを「背負う」ことの辛さも喜びもよくわからず、

もしかしたら背負うものがあったほうが人間の成長にプラスに働くかもしれないことを、受ける意味を実感できていないのです。

きっと私は、背負わずにすむことは背負うことのないまま、一生を終えるでしょう。